犬君の名前 - 犬の世話係D

作成日: 2005年11月 6日 日曜日 04:06:12 JST

最終更新日: 2005年11月30日 水曜日 04:20:00 JST

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犬君とわたしが互いに全幅の信頼を寄せるに至った経緯を考えてみたいと思います。

1歳の犬君 わたしの次のことばを待っている13歳の犬君。10歳のときに緑内障を発症してほぼ失明しています。画像右側の邪魔ものは、犬君にとっては犬君を外界から保護する大事な犬舎です。
画像左下の室内では猫君もわたしの動きを追っています。

 

犬君は10歳のときに緑内障を発症し、高まった眼圧で本来三角形の目が丸くなってしまいました。医者が処方した点眼薬をさし続けてその後眼圧は下がり、目の形も元に戻りましたが緑内障の進行は止まらず、一年後にほぼ失明しました。緑内障の発症がわかった時点で、すでに犬君の視力はかなり失われていました。犬君は以前と同じ行動をとることを自分の義務と考えていたようですが、ベランダから飛び降りるときに足を踏み外したり、ベランダに飛び乗るときに横の柱に激突するようになっていました。わたしも目をつぶって試してみましたが、視力がなくなると10年間の経験もまったくあてになりません。

この地は日本でも有数の少降雨地帯ですが、ひと冬に3、4度は大雪が降る日があり、多ければ1日で80cmほど積もることがあります。何日も降り続くことはないので晴れれば日射しで積雪は徐々に痩せてゆき、それでも気温が非常に低いので完全に消えるには至らず、厳寒期の平均積雪量は30cmほどです。この積雪でも日常の行動は制限されますので、家回りに降った雪をわたしは凍らないうちに除雪するように心がけています。

ベランダの床は地面から30cm持ち上げてあります。犬君が雪で悩まないように、犬舎は犬君が家にやってきたときからベランダの中央に配置してありました。散歩に出かけるたびにベランダから飛び降り、戻ってくるとベランダに飛び乗って犬舎に帰るのが犬君の習慣でした。

目が見えなくなっても犬君は犬舎の場所と犬舎へのアプローチをからだで覚えていましたので、犬舎を段差のない場所へ移動して環境を変える冒険はできませんでした。したがって、散歩に出かけるためにめくらの犬君を地面に下ろすためにはわたしが抱えて下ろすか、犬君が自分で飛び降りるかの2つに1つです。可能な限り犬君が自力で対処する方が犬君にとっても望ましいと思われました。犬君の鼻は生きていましたので、最初はヘアスプレーを要所に振って、ベランダの登り降りの目安にできないかどうかをためしてみました。犬君は戸惑うばかりで、臭いも強過ぎて、場所を特定する気も起きなかったようです。臭いの意味を教えるためには、老齢の犬君に対する長い訓練がふたたび必要でした。犬君も、年をとっても学ぶことを止めませんが、失明した老犬への訓練の繰り返しは苛酷と思われました。

わたしは犬君の普段の行動パターンから思いついて、名前を呼びながら犬君をベランダの端までつれて行き、「よし」と声をかけてみました。案の定犬君はベランダから地面へ飛び降りました。目が見えていたころから制止を解く時には「よし」と声をかけていましたので、成功する予感はありました。ベランダに飛び乗るときにも同じことをこころみ、犬君もそれに答えるつもりはあったようですが、声をかけた後に飛ぶ高さと方向が定まらなかったので、ベランダへはわたしが抱えて載せることにしました。犬君もその方が嬉しかったようです。

目をつぶって30cmの高さから飛び降りてみればわかりますが、「よし」の声1つで先の見えない空間に飛び出すのは、驚くべき行為だとわたしは思います。わたしは高所恐怖症ですので、谷底を見下ろすと飛び降りてみたくなると同時に、ここで犬君の制止を解いたら犬君もやはり飛び降りるのだろうと想像して怖ろしくなることがありました。そのときは無論わたしも飛び出して犬君を捕まえなければならないと自分にいい聞かせていたものです。

こうして犬君は1日に2回、奈落へ飛び込むようになりました。

犬君がここまでわたしを信用するに至るには長い年月をかけて犬君との信頼関係を築いてきたことが背景にあるのですが、そのきっかけは犬君の名前にあったとわたしは考えています。4音節程度までなら犬君もことばを弁別できますから、使える語彙は多くはありませんが、ことばによる犬君との意志の疎通もある程度までは可能です。わたしは犬君にことばをかけ、犬君はからだで答えます。それに対してわたしも全身で答えます。ことばによる意志疎通のきっかけも犬君の名前でした。難しい発音の弁別は犬君にも難しいですから、犬君の名前は2音節か3音節からなるものが最適のようです。

犬君に名前を付けると、それが自分を示すことを犬君はすぐに認識するようになります。ただし自分の名前がかけがえのない大切なものであることを犬君が知るようになるためには、細心の注意が必要と思われます。犬君にとっても人間にとっても、名前が大切なものであることを犬君が理解する必要があるからです。名前が大切であるとわたしがいう意味は、犬君の名前はわたしにとっては抽象的な記号ではなく、わたしの犬君への思い、ともに過ごした時間その他犬君に関わるあらゆるものを載せたあるもの、すなわちわたしにとっての犬君そのものであるということです。現在わたしが口にする犬君の名前は若くて無尽蔵の体力を使い尽くすことを無上の喜びとしたこの上なく美しかった犬君であり、寿命を使い果してやせ細った、瀕死の犬君でもあります。犬君にとっての自分の名前は、そのときどきの犬君の思いを確実に受け止める相手が口にする、犬君そのものを表す特別なものになっていたとわたしは思います。わたしと家内と犬君の3人で歩いているときに会話の中に犬君の名前の母韻が含まれることばが発音されると、犬君は必ずわたしたちを見上げて、それが自分に向けられたものであるかどうかを確認していました。子韻の弁別に難があった犬君は、年齢を重ねるとともに、わたしたちのしぐさから意味を判別する知恵を身に付けていました。

名前は、当人にしか意味がわからないとしても、発音するわたしたちとともに成長します。犬君の名前は、わたしと犬君との間に取り交わされた、信頼を最終目的とした侵すべからざる契約でした。わたしは本当に用事があるとき以外は犬君が見えない室内でも犬君の名前を口にしなくなりました。

犬君の名前を口にしたときには、わたしは必ず犬君にとって有意義な行動をとることにしていました。それは時に応じて犬君を散歩に連れ出すことであり、あるときは食事であり、何も思いつかないときには犬君を揉みくちゃにすることでした。もっとも、目が見えていたころの犬君の性格は狷介で、撫でられることがそれほど好きではありませんでした。そのようなときにはいつも仕方がないから撫でさせてやってるという顔付きをしていたものですが、犬君も視力を失うことなどは考えもしなかったでしょう。目が見えなくなってからは狷介な側面は徐々に薄れて、触れられることの安心感の方が勝ってきたようです。

犬君の名前を呼んでから犬君を叱るなどはもってのほかでした。昔の悪ガキは名前を呼ばれたら一目散に逃げ出していたものです。人間には考える力がありますから、過去に名前をどう扱われていても成長とともに自分の名前と折合う術を身に付けていくことができますが、そのようなことをすると犬君は自分の名前をただの符牒と思い始め、名前を軽んずるようになっていきます。具体的には呼んでも寄ってこなくなります。犬君も自分の名前と不快感を結びつけたくはないからです。犬君を叱るときはわたしは決して名前を呼ばず、叱られる行為の直後に犬君が身をすくめるほどの大声で「こら」とどなっていました。アドレナリンが沸騰すると我を忘れる犬でしたから、同じ悪さを繰り返したときなどはやはり行為の直後に、ポカリと殴ることもありました。あまり大きな力で殴ると犬君を傷つけることがありますから手加減はしていました。殴るというと眉を顰める向きもあるかもしれません。犬君が若かったころはわたしの死角から全速力で駆けてきて、20kgの体重で突然わたしに手加減なしの体当りを食わせて喜んでいましたからあいこなのです。

犬君と契約を交わしてしばらくして、犬君は名前を呼ばれるとわたしの次のことばや行動を待ち構えて聞き耳を立てるようになりました。尻尾がかすかに緊張して揺れ始めます。「いこう!」と声をかけると尻尾を力強く振っていそいそとベランダの出口へ赴くようになり、その後徐々に「来い」、「座れ」、「入れ」、「付け」、「止(や)め」、「良し」、「乗れ(車)」など、後々まで役に立った実用的なことを理解するようになりました。身振り手振りも使って毎日話しかけ、ことばに応じた行動を犬君がとったときのわたしの喜びをわたしのからだで犬君に伝えていただけですから、訓練と呼べるようなものではありません。犬君が自分で考えて身に付けたものです。実用には至りませんでしたが、わたしが意識的に教えた「右」と「左」を犬君が判別する確率は、生涯6割を下ることがありませんでした。目が見えていたころは8割を越える日もありましたが、これはわたしのしぐさを見た犬君が思考を判断に加えた結果でしょう。左右の区別を犬君が理解できれば便利と思って始めたわたしの唯一の訓練でした。犬君には豊かな感情ばかりでなく思考能力があることを示しています。

わたしの禁忌がまだ解けていませんので犬君の名前を実際に口に出すことは応答する犬君がいなくなったいまもはばかられますが、頭の中で犬君の名前を発音することがときどきあります。するとわたしの中で寝ていた犬君が聞き耳を立てて身じろぎをし、頭を持ち上げてわたしのことばを聞こうとします。それ以上に現実世界に踏み込んでくることはありませんが、現実世界を完全にことばの世界に移すことができれば、その中で犬君が動き出すこともあるかもしれないと考えることがあります。犬君の姿はわたしにとっては確定してしまいましたので、あるいはそのような行為は無意味なことなのかもしれません。意味があるかどうかを決めるのはわたしではないようで、きっかけがあるたびにわたしはかつて生きていた犬君を思い出し、その犬君はまだ成長を続けています。

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