2月20日。気温は相変わらず氷点下ですが風がなく、かすかに紫を帯びた青空から差しこむ日がまぶしさをまして、寒さのピークが過ぎたことを感じさせます。踏みかためられた雪道をいつものように1km下って新聞を引き取りにいった帰り道のことでした。雪や雨が降っていなければわたしは右手に伸縮性の引き綱を、左手に新聞を持って、犬君は自由に歩くに任せて新聞を読みながら帰ってきます。
麓近くの道端で立ち働いていたひとに呼び止められて振り返ると、犬君の左のうしろ足が動いておらず左足を引き摺りながら歩いていました。引き綱に抵抗がなかったのでわたしは気がつきませんでした。
6歳の夏に左後ろ足のひざを十字型に支えている腱の1本を切って以来犬君の足は完全な状態ではなかったのですが、その後はある程度回復して、完全にではないにしても左足も使えるようになっていました。その前の日も1日に3kmほど歩いていたのです。
わたしは礼をいって犬君をしばらく休ませました。おそらく何か話しかけながら犬君の頭や背を撫でていたのだろうと思います。頭の中では最後に残っていた腱がついに切れたのかも知れないと考えていました。一方ではこれまで犬君が歩いてきた道が車に踏みかためられたよく滑る雪のわだちでしたので、転ばずに歩こうとして疲れたのかも知れない。そうであってくれればよいとも思っていました。
5分ほど休んで歩き始めると犬君の足が動くようでした。わたしは少し安堵して家路についたのですが、登り坂にさしかかると足がまた動かなくなります。犬君を道端で休ませて車で引き取りに戻ることを考えましたが、車が滑ると道端は危険ですし、道から外れた林の中はまだ雪が深く、犬君を座らせたり寝かせたりするには辛いものがあります。結局比較的平坦な道では犬君を休ませながら歩き、急な坂道はわたしが犬君を抱えて登りました。犬君の体重は20kgあって、帰りの全行程1kmを犬君を抱えて歩くことはできませんでした。いつもは往復50分で帰る道を、この日は2時間以上かけて帰ってきました。
夕方の散歩は家の前の平坦な道を少し歩かせて、排便と排尿の後はすぐに犬舎に戻すことにしました。家は半地下室の上に建っており、玄関までは階段で登ります。階段脇は犬君が歩き安いように、障害物の少ない小道にしています。その日、夕方の散歩から帰ったときには犬君は小道を登り切りましたが、ときどきよろけていたのが気がかりでした。
犬君が登り降りしていた階段脇のいまの小道。犬君が歩かなくなったので草が伸びています。
不安は翌日から次第に現実となりました。往きに歩き過ぎると復りに犬君が動けなくなります。前の日には歩けた距離が翌日になるとこなせなくなります。歩く距離が日ごとに短くなっているのが明らかになってきました。犬君が動けなくなったら無論わたしが抱いて帰ってくるのです。救いは雪が消えて凍った土が現れているところへ来ると、犬君が何かの臭跡をかぎ回って少し元気になったように見えることでした。わたしは平坦で土が見えている場所を探しては、そこへ犬君をつれていきました。雪がなくなって見渡すかぎり土が現れてくれば犬君が歩く距離もまた伸びるかも知れないと思うと、今年ほど春が待ち遠しかったことはありません。
この時期日本列島の太平洋側を南岸低気圧が通り過ぎると、ここには湿った大雪が降ります。翌日は必ず晴れて、積もった雪は見る見る融けて音をたてて道を流れていきますが、気温はまだ氷点を少し上回るほどですから一度積もると融け切るまでには2、3日かかります。0℃の水に浸したくはないので犬君には路肩の比較的乾いた積雪の上を歩いてもらうのですが、日を追うにつれて歩くことがままならなくなり、3月の初めに歩きながら倒れこんで、ついに立って食事をとることができなくなりました。
過去に知った犬はすべて立てなくなった当日か翌日には息を引き取っていましたのでわたしもいよいよと覚悟を決め、犬君のためにできる限りのことをするつもりでした。これまで犬君が弱ったときには、鶏の笹身肉に熱湯をかけてたたき状にしたものを細かく切って食べさせ、とりあえず元気を取り戻させた上で栄養のあるものをとらせるということをやって、成功してきています。立って食事をとることができなくなった犬君の胴をわたしの手で支えて座らせ、笹身肉の食事を口元へ運ぶと、それまでの元気のなさと比べると意外なほどの食欲を示します。足が萎えても犬君にはすぐに死ぬつもりはないらしいことが段々とわかってきました。
歩けなくなったことに対して、散歩が大好きだった犬君なりに気落ちはあったのかもしれません。寝ついてから一週間は水気をとろうとせず、水分は最初の3日間は笹身肉から、その後は総合栄養食の缶詰肉からとるだけでした。不安はありましたがおしっこが出ていたので無理に水を飲ませることはせず、犬君の好きなようにさせました。
さしあたっての問題は排便と排尿でした。寝ついた翌朝に犬舎をのぞいたときには凍った便がからだのそばに転がっていて犬君に申しわけない思いをしたのですが、これは意外と簡単に解決しました。食事をさせた後に抱き上げると便意を催すことがわかったからです。排便は散歩中に行ない、帰ってから食事というのが長年の習慣で、それに慣れた犬君がどう対応するかわからなかったのですが、犬君はすぐに適応しました。
排尿の問題は藁の上にペットシートを敷いて解決しました。犬君はシートが濡れると鳴いて訴えます。犬君が鳴いたらシートを交換することにしました。はじめのうちは犬君の背丈よりも広いシートを敷いて鳴くたびに敷き換えていましたが、その後は大きなシートの上に小さなシートをさらに敷いて、排尿があるたびに交換するようにしましたので、わたしが目覚めている限りは犬君が汚れることはなくなりました。
食事のために犬君を犬舎から出して座らせるたびに犬君のからだの一部の毛が薄くなってくることに気がついてはいましたが、皮膚まで擦り切れたときには本当に驚きました。床擦れが発生したのです。今考えれば毛が擦り切れ始めたときに当然予想できていいことなのですが、当時はまるで発想できませんでした。寝ついてから3日目だったと思います。腰骨が飛び出している部分の皮膚がなくなって、肉が剥き出しになっていました。怖ろしい光景でした。
どう対処すればいいのかはわかりませんでしたが、とりあえず傷口が直接床に触れないようにする必要があり、薬局で傷あてパッドとコットンと包帯を探してきました。そのときに「傷口を乾燥させるスプレー」というのを見つけて一緒に買ってきたのですが、このスプレーは失敗でした。翌日包帯を換えたときには傷口が広がっていました。犬君の傷に対しては血とリンパ液を吸収する処置だけを行なった方がいいようです。医者に相談することは考えませんでした。ここから病院までは車で1時間かかりますし、昔犬君が何かの理由でふとももを舐めまくって腿がただれたときの医者の助言が、犬君が舐められないように何かで覆えということだったからです。このときはわたしのパンツを犬君にはかせました。尻尾の出る穴があって丁度よかったからです。
閑話休題。
からだが自由であれば窮屈になったときに自分で姿勢を変えられるのですが、犬君は動けなくなったので寝返りが打てません。わたしが人為的に犬君をひっくり返しても高が知れていたようで、犬君の床擦れは想像を絶するスピードでからだの左右に広がり、飛び出している左右の肩甲骨と左右の腰骨を覆っていた皮膚はすべて無くなって、肉が剥き出しになってしまいました。インターネットで「犬の床擦れ」を検索すると、エアマット(プチプチシート - 緩衝シート)が有効という記事が何件かありましたので、それも買ってきてペットシートの下に敷きました。その上に横たわる犬君を見ていると、床擦れが発生する前ならよかったかも知れませんが、発生した後では痛みをやわらげる効果ぐらいしか見込めないようでした。骨の飛び出している部分が床にあたらないようにする工夫が必要でした。
ところがいざ探してみると、家事に関するものならほぼなんでも揃うホームセンターや薬局などを見廻しても、わたしたちが必要とするものが一つもありません。介護用品と称する商品は、人間用もペット用も、おむつのように介護する側の手間を省くものばかりで、される側の苦痛をやわらげるように考えられたものがありませんでした。インターネットで検索してやっと床擦れ防止グッズを1種類発見はしましたが急場には間に合いそうにもなく、画像から見た限りは高さも大きさも足りないようでした。
最初は窓やドアのすき間を塞ぐ、すき間テープの堅いものをスペーサーとして使いました。軟らかいものはすぐに潰れて、役に立ちそうもありませんでした。
傷口に傷あてパッドをあて、その上にコットンを載せ、それを湿布薬固定用の人間用のメッシュシートで犬君のからだに貼り付けて固定します。メッシュシートは薬屋で大安売りしていたものを大量に買ってきました。多分粘着力が弱くて売れなかったものでしょう。これは犬君には逆に好都合でした。ほとんどのメッシュシートは粘着力が強過ぎて、パッドを交換するときに毛まで引きはがしてしまうからです。メッシュシートを使い尽くした後は、これは油紙で代用しました。
メッシュシートを貼り付けたら、骨が飛び出している部分に沿って次にすき間テープをメッシュシートの上に貼り付けていきます。貼り終ったらスペーサーの高さが傷口より高いことを確認します。その上に包帯を巻いてすき間テープのスペーサーが動かないようにします。これで2日間は落ちついていられました。床擦れが全身に広がっていますので、手際よくやってもこの作業にはふたりがかりで1、2時間かかります。わたしたちが犬君を介護していることを犬君は理解しているのではないかと思います。手当の間中犬君は安らかな寝息を立てて眠っており、別の側の手当をするためにからだを裏返すときには目覚めて、からだに力を入れて作業に協力してくれます。驚いたことに床擦れの進行はこれで止まり、傷口の肉が盛り上がって回復する気配すら見せてきました。
手当をして2日目には傷口の上の包帯まで血とリンパ液が滲み出してきます。そのたびに傷あてパッドとコットンと包帯を交換する日々が始まりました。包帯を外した後は、パッドとコットンが吸収し切れずに回りに溢れた血とリンパ液を、殺菌性のウエットティシュできれいに拭き取っておきます。床擦れが直る可能性が出てきたことは嬉しい兆候でしたが、雪が消えて桜が咲いても、犬君が自力で立ち上がることはありませんでした。犬君は初めて会ったときからファタリストで、リアリストでした。起きたことを後悔することは一切なく、可能性がないことを試みることも一切ありません。犬君が二度と立ち上がらないことをわたしは納得していました。
スペーサーのずれを防ぐ工夫を試みて大失敗をしたことがあります。犬君がもがいてからだの位置を変えるとスペーサーが包帯の下で移動して傷口が床に触れることがありましたので、包帯の上にさらにネット包帯を掛け、両脇の下に引っかけて背中に渡してスペーサーを固定しようとしたときのことです。包帯をすべて外して傷あてパッドをあてようと前肢を持ち上げたら、脇の下が切れて肉が弾けていました。ネット包帯が脇の下で一箇所に集まって、一本の糸になっていたのです。人間は手を使うことができますから痛ければ手で原因を取り除くことができますが、犬君にできるのは異常な部分を舐めることだけです。鋭利な繊維を使ってしまったことをわたしは後悔し、犬君に謝りましたが、手遅れでした。この傷の治療は床擦れよりも厄介で、犬君の傷の手当には幅広の繊維しか使ってはならないことを身に染みて学びました。
桜は咲きましたが、一時期快方に向かったと見えた傷口は一向に塞がりません。調べると犬君が徐々に痩せてきて、これまで使っていたスペーサーの高さが足りなくなって、別の工夫が必要な時期に来ていました。既存の商品の中から使えるものを探すという発想を、わたしたちは変えなければなりませんでした。
世の中になければ自分で作ればいいのです。手近にあったエアマットと両面テープを使ってわたしたちは次のようなスペーサーを作りました。貼り付ける手順は以前と同じです。
エアマットは巻き終りが止まるように端の部分に両面テープを貼り付けて凹凸のある側が外側になるように巻き、巻き終えたら両面テープを貼り付けて接着できるようにしておきます。
このスペーサーは高さを自由に変えることができ、前のすき間テープよりも使いやすくなりました。ただし貼り付けて3日もすると空気が抜けてきてスペーサーの役に立たなくなりますから、やはり2、3日ごとに交換する必要があります。このスペーサーを使ってからは床擦れの進行が止まったばかりでなく、肩甲骨回りは本復し始めています。わたしが見逃していることがあるのでしょう。腰骨回りの床擦れは進行が止まっていますが回復はしていません。
傷の手当のしかたはわかってきましたので、本復するかどうかは犬君の頑張りにかかります。犬君の心臓が寿命へ向かって最後のときを刻んでいるのは間違いないようです。この動きを逆行させることはできませんが、犬君はまだ元気です。口が自由に動き、歯もいまだにすべて揃っていますので、腰回りに巻いた包帯の下に口を突っ込んで傷あてパッドを外し、包帯も外して床擦れの傷を舐めようとすることがあります。ひとの気持ちも知らずにとわたしたちは嘆くのですが、犬君にもそうしなければならない理由があるはずです。まだ原因はわかりませんがこれについては犬君の好きに任せるわけにはいきませんので、そのようなときには普通の伸縮性の包帯ではなく「くっつく包帯」というものを使います。普通の包帯よりも値が張りますが接着剤で包帯をくっつけるのではなく、重ねた包帯の繊維同士がくっつきますので、巻き終えた後にはギプスほどではありませんがかなりしっかりと固まって、犬君が口で外すことはできなくなります。固まり過ぎて血流を妨げる可能性がありますので、この包帯は慎重に緩めに巻く必要があります。原因が消えたのか犬君があきらめたのかはわかりませんが、一度使った後犬君は傷あてパッドを引き抜かなくなり、包帯は再度普通の伸縮性のものに戻しました。いつまた始めるかわかりませんので、予備のくっつく包帯は常に用意しています。
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